Trees In Sky

主よ 貴方を愛するための力を 私にお与えください

STUDIO GROUP MANIFEST

 

 

 

STUDIO GROUP MANIFEST

空間システムと身体性

知覚における論理的対象化と対象的論理性

 

 

 意識の世界構成においては、その意識と対象世界という相互現象を構造化している身体的媒体=すなわち総体的システム・メディアの動機・連合を契機に、そこには記号場(システム・メディアの統合現象)というべき思考体制の目的論的関係場と、その中で全記号体系の意味と機能を制度化する各閉鎖系の総体的構造関係が開かれるといえます。ある意味ではそれらが意識活動を閉塞化させているのだといえますが、とにかくそれらが意識を、その世界構成にあたり、ある思考体制へと構造化させているのです。 

 その記号場での意識の世界対象化の論述過程では、その自らの意味を、ある構造体系の全体性の統覚においてしか、意味化し得ないような幾多の記号体系と、それと同時にそれらの総体的構造関係が重層的に展開され、ある意味作用は全体を志向し体系の獲得を目指し、そして且つある体系の構造は自らの具体性を目指し、少なくともその場において自らの閉鎖・完了を目指しているといえます。まさにその意味において、諸記号体系の統合という意識の世界対象化の論述過程も、相矛盾する記号系の弁証法的発展の坩堝になっているのです。

 

 さて、このような記号場がいわゆる知覚であります。知覚は幾多の記号体系の相互構造関係=総体的システムによって体制化されており、その体制において初めて知覚は世界を分節化し、論理的対象化の過程で総体的システムの具体的文脈の形成を完了するといえます。しかしこの知覚の構成意識では、自らのシステム・メディアの身体過程の本質的限界において、自らの構造である総体的システムを自ら生産することはできず、具体的文脈を形成するだけであります。すなわち自己現象においては自らの構造の刷新はあり得ないのです。

 そのような意味において、知覚の構成意識に限れば、意識の世界構成とは、本質的な意識の自己外化・肉体化作用であるところの総体的システムの自己現象の自己支配に対して、自らの隷属化を実証するために、その構成行為に耽るという途方もないパラドックス、すなわち本質的な自己疎外行為、同義反復行為なのだということになります。

 

 しかしながら、意識の世界構成においては、前に述べたような、知覚の構成意識の記号場に自らの身体性を置くものの、それとは全く異なる構成意識も存在します。その構成意識は、自らの構造である総体的システムによって、そのシステムの具体的な止揚形成である世界対象化の論述過程を再構成することができます。すなわちその構成意識においては、総体的システムの弁証法的自己発展が可能なのです。そこには独自の思惟関係と論述構造が開かれています。 

 そのような思惟関係と論述構造の記号場がいわゆる言語であり、その言語の記号系は、構成意識が世界の論理的対象化により、既存の知覚構造を再編する意欲を契機に、その論述過程での総体的システムの動機・連合化の一つの様態である内的言語として現れます。

 

 すなわちこの内的言語とは、知覚構造の総体的システムが、世界の論理的対象化の論述過程で自ら機能する時の、その言語の自己形態なのです。

 

 この内的言語の構成意識は、世界の論理的対象化の過程で、その対象化の思考場というべき諸記号体系を自己生産し、その整合という意欲の中で、その世界の論理的対象化の確立を目指します。この論理的とは、ある対象的・非論理性を止揚し得る総体的システムの実践的確立への志向であり、そしてその確立とは思考の弁証法形成への意欲であります。 

 そしてまた、この内的言語の構成意識は、新たなレベルの総体的システムの確立という自己弁証法によって、知覚の構成意識の総体的システムをも再構造化します。それによって知覚は新たなる諸相において世界を獲得することになります。

 

 ですから、意識の世界構成というものは、この知覚と言語、両者の相補完する構成意識の相互両立的な内的運動によって形成されており、そしてその両者は意識活動の弁証法的自己拡大を支えています。そしてこの両者の一見対立するかの見える構成意識は、意識活動の全体性が動機する現場では混沌と錯綜しており、相互対立的にしか概念化され得ないものであり、全体から見れば目的論的区別でしかありません。

 しかしながら、この両者の意識構成という弁証法的契機の提出は、新たなレベルの世界像の形成の可能性を孕んでいます。

 

 さて、このような言語の構成意識は、振り返れば、意識の世界に対する歴史的所産としての科学的態度であったといえます。そしてあえて相互対立的に言えば、知覚の構成意識はこれも歴史的所産としての意識の世界に対する芸術的態度であったといえます。

 なぜなら、知覚の構成意識において、歴史的に形成・体制化されてきた様々な「芸術表現の論述形式」は、知覚世界を対象化した科学的認識行為なのであり、そしてその知覚世界は、この芸術表現という科学的認識行為によって生産された記号体系・総体的システムによって体制化されているからです。すなわち、知覚構造(知覚の構成意識の体制)とは、この芸術表現の総体的システムによる、知覚野の芸術概念の具体的発現であるからです。

 

 さらに、この芸術表現と呼ばれるこの一つの構成意識は、知覚の構成意識における総体的システム・メディアを、自らの論理構造の所与として直接に内的言語化し、そこに開かれた思惟関係により知覚の記号体系を対象化し、そして自らに論述過程を科学的思考体制として確立してきたものなのです。

 ですから、この芸術表現の構成意識は、他の形態の内的言語の構成意識に比べ、知覚の構成意識に対してある独自の関係項・独自の知覚に対する体制化の構造=総体的システムの再構成化の能力を持っており、その自己意識の体制化において、幾多の知覚構造の総体的システムにより、知覚野の芸術概念を生産してきました。

 再び言い直すならば、知覚の構成意識の総体的システムの自己発展は、直接に、芸術表現という科学的認識行為によってなされた、絵画的世界構成であったといえます。 

 

 ところで、この芸術表現、あえて絵画的世界構成といえる、その思考体制の歴史を辿れば、その体制の歴史的自覚はさておき、ルネッサンスのおける遠近法の確立によって、その論述構造の側面においてある完成を迎えておりました。

 まさにその時において芸術表現の近代が始まったのですが、それ以後十九世紀までの延々としたその思考体制のブルジョアイデオロギーによる私物化の中で、芸術表現は、独自の科学的構成としての論理対象と論述構造を見失い、自らの弁証法的自己止揚を疎外して来ました。

 しかし、印象派セザンヌの問題提示によってその歴史は括弧付けされ、絵画的世界構成は独自の意味論的レベルを恢復したかに見えましたが、セザンヌ以後もその行為の意味を曲解した一層の甚だしい修正主義の私物化が始まりました。

 しかしながら、最近のある世界的規模の芸術態度の自覚化よって、この思考体制の歴史は、再び絵画的世界構成の独自の論理対象と論述方法の実験的・創造的探究の態度を恢復し、新たなレベルの世界を獲得しようとしているといえます。

 

 さて、そのような歴史的見地に立ちながら、我々が最も意欲的に切り開こうとしているレベルは次の点にあります。

 すなわち、一般的な科学の内的言語の構成意識は、その構成の論述過程において、論理対象と論述構造とが、そこにおける内的言語の本質的孤立性において構造矛盾しながらも、記号の閉鎖系・概念体系を生産することになりますが、我々の科学的構成としての芸術表現においては、その構成意識の対象性は、自らの意味の獲得のためにある体系の論述を意欲する時、そこには既に対象化の主題が成立・完了しているということ、つまりその対象化の行為性において、自らの意味の論理的対象化と対象的論理性の形成が同時に進行している点にあります。

 

 それは、数学において、その論理対象と論述構造との構造矛盾が、そもそも、数学の記号(内的言語)の体系的整合性・純血性において初めから終息しているように、我々の芸術表現も、記号体系の生産というその行為が主題であり、方法であるからです。

 もっと具体的に言うならば、我々の「空間システムと身体性」という主題に対しても、我々の空間に対する記号論的構成行為の内的言語が、我々の主題であるところの知覚構造の記号体系であることによって、その構成行為における論理対象と論述構造との構造矛盾が初めから、その内的言語の本質的共存性において解放されているからです。

 

 ですから、この構成行為の論述過程では、記号体系の論理的対象化と同時に、行為の対象的論理性が確立されているのです。

 煎じ詰めれば、これが芸術表現であり、あくまで芸術の構成意識であり、あえていえば絵画的世界構成であり、科学的世界構成の構造矛盾を芸術の方から統合しようというものです。

 

 さて最後に、このような我々の科学的態度は、現代美術を含む諸学の学術構成の関係場において、自らを現代美術として擁立することには全くやぶさかではありません。

 しかしながら、自らの芸術としての正統性を歴史に求めるということになれば、一言付さねばなりません。すなわち、我々はあのルネッサンスダヴィンチにおける総合的な思考の方法、そして印象派セザンヌにおける内的言語の体系化の方法とその論理形態の探求に見られるような、絵画的世界構成の意識において、世界の歴史を辿り、そして自らの芸術の歴史的存在の正当性を確認したいと思います。

 

 

Sincerely